株式会社チャンネルプラスの制作スタッフによるニュースブログ

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株式会社チャンネルプラスのスタッフコラム | チャンネルコラム

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東京スカイツリーの成長を撮り続けた日々

2013.08.14
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■スカイツリーを見上げる人々

それはまだ、東京タワーよりも小さかった頃・・・
下町の人々があらゆるところで声を掛けてきてくれます。
「いい絵撮ってね!下町のシンボルだから頼むね」と、新たな電波塔を我が子のような思いで見つめている人、たーくさんいました。

この取材で最優先したことがあります。スカイツリーを撮ることよりも!です。
『カメラクルーに声を掛けてきてくれた人が居たら、撮影中であろうとも、どんなに時間が迫っていても“お話し”をする』こと。
勿論、私達からも積極的に話しかけるようにしました。
下町の、東京の、日本の新たなシンボル誕生!という特別な時間の中で巡り会う・・・
そんな『出会い』を一番大切にしました。
「今日は朝一番から大きな支柱を吊り上げているよ」
「風が強いからタワークレーンは動かないよ!クレーンの向きを見ると判別出来る」等、日々の動向を教えてくれるのです。
毎日見上げているとのことで、とても詳しく、まさに“現場記者”でした。
「来週は町会の祭りがあるから、スカイツリーと絡めて撮ってみたら」 「もうすぐ中秋の名月だから、いい絵撮れるんじゃない」
一番多く声を掛けてきてくれたのは、一眼レフカメラで建設中のスカイツリーを撮り続けている方々でした。
その中で忘れられない出会いの一つが・・・

■世界一の“たけのこ”

川面に映る“逆さツリー”で有名なポイント、十間橋。
その日の撮影が終盤に差し掛かったころ、70代の男性が話しかけてきました。
「TBSさん、俺が撮った“たけのこ”見てくれないか」

たけのこ???

この男性は、日々ぐんぐん成長するスカイツリーが竹の子のように見えると言い、自宅マンションから撮った写真を見せてくれました。
その写真が凄いんです。
スカイツリーと富士山の2ショット!最高の写真でした。
夜明けから薄暮まで、様々な空の表情や光の中で伸びゆくスカイツリー!
これだけでも素敵なのに、日本一の富士山と共演までしている。
『竹の子が、その背を伸ばし青竹になり、富士山に追いつこうと空へ向かっている』
写真から感じたのは、世界一になろうとする“たけのこの成長”でした。
思わず「私達も、ご自宅で撮影させて下さい」とお願いしたら、
「連絡先教えるから今度おいで!」と受け入れてくれました。

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撮影:鳥海道勝 ■最初に朝日を浴び、最後まで夕日に染まる

“たけのこの成長”を撮り続けている鳥海道勝さん(当時75歳)は奥様と2人で定年後のゆっくりとした時間を、葛飾区のマンションで過ごしています。
ご自宅を訪ね、まずは撮影打ち合わせ。
「日の出の時刻、街に日が差していない中、一際高いスカイツリーは最初に朝日を浴びる」
「午前中は順光で、塔体の藍白が綺麗に出る」
「夕方は逆光になり、都心の中で最後まで夕日に染まる」
毎日の観察から得られた“撮影のコツ”は、スカイツリー建設の進捗状況だけでなく、取り巻く風景や年間通しての気象条件にまで及んでいました。
窓から眺めるスカイツリーは生活の一部になっていて、鳥海さんにとって『元気のもと』なのだな~と感じました。
冬の寒さと闘いながら一緒に撮影した後は、お部屋で暖をとらせて頂き、奥様がいれてくれたお茶をすすりながらスカイツリーの話をする。
テーブルいっぱいにスカイツリーの写真を広げ、地区の広報誌に掲載された話から日々の出来事に至るまで、おしゃべり!
“身も心も温まる”楽しいひとときを過ごさせて頂きました。

■ダイヤモンドを狙え

鳥海さんのご自宅から、1年間で2回だけ見られる『ダイヤモンド富士』
空気が澄み渡り、全ての気象条件が揃わなければ、ダイヤモンド富士とスカイツリーの共演は映像に収められません。
その日は何月何日なのか?
1日1日動いていく日没の位置を観察して割り出していくことが必要なのです。
しかし、報道カメラマンとして日々発生するニュースを追いかけている仕事上、毎日確認に行くことは難しい状況でした。

『ダイヤモンドを狙うのは厳しい・・・』 そんな私達に、鳥海さんが力を貸してくれました。

「2日後に富士山と夕日が重なりそうだよ」等の情報を、電話で逐一教えてくれたのです。
2011年2月4日、スカイツリー574メートル。
『ダイヤモンド富士』と『成長を続けるたけのこ』の撮影に成功。
この先二度とない建設途中の夕景色は、1人の男性との出会いによって映像になりました。
「来年は、ダイヤモンド富士と634メートルに達したスカイツリーを撮りましょう」と約束し、この日の撮影を終えました。

■東日本大震災

2011年3月1日。

スカイツリーは600メートルを超え、電波塔として『世界一の高さ』に成長しました。
そのわずか10日後に東日本大震災が発生。
私は、大渋滞の都内を車で走り、スカイツリーを一度だけ目にして被災地へ。
福島県で原発事故の取材を続ける間に、スカイツリーは最高到達点である634メートルになりました。
自らの手で撮影することは叶いませんでしたが『震災から復興する日本のシンボルになって欲しい!みんなを元気付けて欲しい!』と被災地から心底願いました。
その後しばらくの間、スカイツリーの撮影は少なくなってしまいました。
こうした中でも『スカイツリーで知り合った方々との繋がりは大切にしたい・・・』
仕事が一段落した際、鳥海さんへ連絡を入れ「奥様共々、怪我はなかった」と聞き、安心しました。
会えない時間が続いたまま新年を迎え、年賀状を送りました。
ほんの小さなことなのかもしれません。でも、繋がることを大切にしました。

■再会、そして“珠玉の映像 グラフィックス3

2012年2月5日

久しぶりに訪れる鳥海さんのご自宅。
お互いに話は尽きないのですが、今は1年ぶりのダイヤモンド富士を狙うべく被写体にレンズを向ける。
しかし、スカイツリーの左側に見えるはずの富士山は雲に覆われ、最後まで姿を現しませんでした。冷たい風に吹かれる中でしたが、再会の時は“湯たんぽ”のように暖かかった。

「鳥海さん、あと何日くらい経ったら夕日がスカイツリーにかかりますか?」
「どうだろうね~?10日か?それ以上か?」
私は、わがままなお願いだと分かっていながら切り出しました。
「“ダイヤモンドスカイツリー”しかも、天望回廊に夕日が重なる時を狙ってみたいです」
「1日でどれくらい太陽の位置がずれるのか?予測は難しいが、“Xデー”の前日に有田さんへ連絡出来るよう毎日見ておきますよ」
私達の撮影を自分の事のように楽しんでくれて、面倒をみてくれる鳥海さん。
2週間後、私の携帯電話が鳴りました。
「どうやら、明日が“Xデー”だと思う!」
「なんとしてでも行きます!」

地上450メートル。
天望回廊とオレンジ色の太陽が1つに重なり、無数の輝きが窓ガラスに散りばめられる。
夕日の中に浮かび上がる姿は、どこまでも力強く【新たな時代の到来】を感じさせるものでした。
『十秒わずかの“珠玉の映像”』
視聴者の瞳に映し出すことが出来たのは、下町気質あふれる男性の存在があったからなのです。

東京スカイツリーの成長を追い続け、巡り合った沢山の人たち。
そこで学んだこと、感じたこと。
取材者である前に、人としてどう向き合うべきか?
日々のニュースに時間を追われ、忘れてしまいがちな『ごく普通のこと』
これからも、空まで伸びた『世界一』を見上げるたびに、
そのふもとにある『下町』を思い出していきたいです。

親愛なる鳥海さんに敬意を込めて・・・


photo081401 撮影:鳥海道勝

絶景とコンパクトを追い求めて

2013.07.13

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  BS-TBSで毎週金曜日夜9時から放送している「地球絶景紀行」は世界の絶景を紹介する番組。この番組の撮影のため、2013年2月に2週間ミャンマーへの旅に出た。

プライベートで知らない町へ行って興味津々と町並みを見回すように歩きながらレンズを町のあちらこちらにゆっくりと向ける。
番組の主な目的のひとつは、視聴者に旅を疑似体験してもらうこと。
「旅人の目線に」なったように撮影することが基本的な考え方だ。
町歩き、車への乗り込み、ドライブショットなどの移動撮影は必須だ。

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地元の人たちに出会い、生活の息遣いを感じ、素晴らしい景色が見られる場所を教えてもらい、絶景に辿り着く。
絶景ポイントでは三脚を立ててじっくり撮影する。絶景をゆったりと見てもらうためだ。

 SONY NX-5(ハンドヘルドタイプで、SDカードにAVC-HDを記録)と三脚が主な機材だ。
機材はまるで観光客の荷物のようなコンパクトさだ。
そして、収録素材をノンリニア編集するため、ノートパソコンとハードディスクをザックに入れていく。

 スタッフは、日本からカメラマン1名とディレクター1名、そして現地コーディネーター1名の必要最小限の編成。
制作的な目標として機材も経費もコンパクトにし、素晴らしい映像を撮ってくることにある。

日の出前から真っ赤な夕日が沈むまで屋外で撮影し、宿の部屋に戻って収録したデータをコピー&変換作業する。

滞在中にコーディネーターと日本語に訳す。
まるで今流行のノマドワーカー。旅をしながら仕事をする人のようだ。
机はオフィスになく、世界中にある。

村松洋征(むらまつ ひろゆき)


そんな日本の人々に少しでも何かを伝えることができれば

2013.06.30

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今でも忘れない衝撃的な光景がある。2001年9月11日、ニューヨークのワールド・トレード・センタービルに旅客機が突っ込んだ映像だ。ちょうどNews23が始まったばかり。キャスターも何が起きたのか把握できない状態だった。それを説明できる者など誰一人といない。「これは映画の一幕なのか現実なのか」、体が凍り付いた。それがアメリカ同時多発テロ発生の瞬間だった。

その日を境に会社内はめまぐるしい忙しさとなった。

すぐにアメリカ出張の準備をする者、外務省での会見に向かう者、首相官邸に向かう者、国際情勢識者インタビューに向かう者、騒然とした日が続いた。死者行方不明者の数が日に日に更新され、日本人の安否、犯人の目的などなどわからないことが多く、世界中の人々がニュースに関心を持った。

それから約一か月、アフガニスタンのタリバン政権が同時多発テロ事件の首謀者ウサマ・ビン・ラーディン容疑者並びにテロ組織アルカイーダをかくまっているとしてアメリカ軍をはじめ(とする)多国籍軍によるアフガニスタン侵攻が始まった。

この事件は入社間もない私に、報道に携わる者としての自覚を持たせる大きなきっかけとなった。

10月7日、多国籍軍のアフガニスタン空爆が始まった。この日以降、先輩たちは続々とアフガニスタンを目指し、隣国パキスタンやタジキスタン、ウズベキスタンなど聞いたこともないような国々へ飛び立った。開戦直後はなかなかアフガニスタンには入国ができず、JNNの前線基地はパキスタンの首都イスラマバードにあるマリオットホテルの一室に置かれた。

パキスタン出張クルーは一ヶ月程で交代だった。私のパスポートは、会社に預けていたが、もちろん私のような新人が簡単に海外出張に行けるはずはないと考えていた。

しかし、チャンスはやってきた。戦争が長引くにつれアメリカ出張、パキスタン出張と数クルーが交代し、デスクの人繰りが苦しくなってきた。私の僻地好きでどこへでも行く気満々な気持ちが買われたのだろうか、11月12日からのパキスタンへの長期出張をデスクから言い渡された。

パキスタンはアフガニスタンの隣国であり、それまでの取材は多国籍軍やタリバン広報官の会見、パキスタン国内の状況に関する企画取材などがメインであり、決して危険な場所ではないだろうというデスクの判断もあったのだと思う。

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11月13日、多国籍軍がアフガニスタン首都カブールを制圧したとの情報が流れた。

これがパキスタンに到着してから聞いた最初の情報だった。パキスタンでの仕事はトライバルエリアと呼ばれる部族支配地域におけるアフガニスタンとの 国境地帯のプレスツアー、ビン・ラーデンが潜んでいるとされていたトラボラでの取材、「報道特集」、「News23」の企画取材などであったが、これらは 先輩たちが担当していた。新人だった私の主な仕事は一ヶ月間マリオットホテルの前線本部に詰め、多国籍軍による連日の記者会見、地元テレビの収録、伝送用 に取材テープの粗編集、たまに外に出て情報提供者のインタビュー、反アメリカのデモなどの取材、はたまた食料の買い出しであった。予想以上に淡々としたホ テル内のルーティンワークが中心であった。

パキスタン滞在が一ヶ月近く経ちそろそろ交代の時期が近付いてきたそんな最中、急に状況が変わった。東京から来るはずの別クルーが担当予定だった News23年末特番取材を「パキスタンの前線本部のニュースクルーでお願いします」と本社から依頼が来たのである。帰国が延長され、雑務から離れ、刺激的なホテルの外に出たかった私にとってはこの企画は大きな喜びであった。

そして、アフガニスタンでの年末特番取材が決まった。12月19日、News23企画班としてゲストの作家H氏、ディレクター、カメラマンとともに慌ただしく空席待ちであった国連機に飛び乗り、数時間後にはアフガニスタンの首都カブールのバグラム空軍基地に降りたった。

多国籍軍が制圧してから一ヶ月、街に戦闘はなく表面上は平穏な空気が流れ、戦争が終わるかもという微かな希望が市民に芽生え始めた時期であった。

バザールと呼ばれる市場では生活必需品が売買され、タリバン政権下で禁止されていた音楽も流れていた。同じく禁止されていたテレビや手作りの衛星アンテナなども久しぶりに売られ、必死で生きようとする人々の活動が始まっていた。

しかし、一歩道をはずれればいたるところが地雷原。立ち寄ったレストランの中央の席には北部同盟の兵士が、無造作にRPG-7対戦車ロケットランチャーやAK-47カラシニコフと呼ばれる突撃銃を積み上げた横で佇んでいた。

カブールをはじめ、郊外の小さな町々は1979年ソ連のアフガニスタン侵攻当時から続く内戦で荒廃、疲弊していた。長く続いた内戦時から戦闘行為は 男たちの出稼ぎの場にもなっていた。兄弟でも出稼ぎに行くタイミングがほんの少しずれると兄はタリバン兵、弟は北部同盟にといった感じである。

取材中、多国籍軍の誤爆に巻き込まれた後遺症で目の焦点が合わないほど精神に異常をきたした幼い少女も取材した。もともとはタリバン軍の基地であったと言うグランドゼロのような大きな穴も目にした。そこは北部同盟軍の戦車師団の基地となっていた。

死と隣り合わせというそんな状況下でも人々は食べ、泣き、笑い、日々を生きている。新しい命の芽生えに感謝をし、明日に希望をつなげようと必死に生きている。取材を通し、私が生活している東京の現実と目の前にある現実の違いをまざまざと見せつけられた。あれから12年、アフガニスタンでは未だに自爆 テロが続き、多くの一般市民が巻き込まれている。

 

日本にいてはあまり気にもしない遠い国の話、いや日本国内のことでさえ少し時間が経てば自分の生活に影響がないからと忘れてしまう、『そんな日本の人々に少しでも何かを伝えることができれば』と願い、2001年のクリスマスはカブールからNews23年末特番、【アフガン報告】中継をしたこ とは忘れられない。

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それ以来、僻地好きが功を奏しているのか、北朝鮮、ケニア、スーダン、アルゼンチン、ペルー、ボリビアを取材した。国内では、新潟中越地震、新潟中越沖地震、岩手・宮城内陸地震、東日本大震災も経験した。

どんな時でも初心に戻り、『そんな日本の人々に少しでも何かを伝えることができれば』と必死に願いながら・・・。