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そんな日本の人々に少しでも何かを伝えることができれば

2013.06.30

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今でも忘れない衝撃的な光景がある。2001年9月11日、ニューヨークのワールド・トレード・センタービルに旅客機が突っ込んだ映像だ。ちょうどNews23が始まったばかり。キャスターも何が起きたのか把握できない状態だった。それを説明できる者など誰一人といない。「これは映画の一幕なのか現実なのか」、体が凍り付いた。それがアメリカ同時多発テロ発生の瞬間だった。

その日を境に会社内はめまぐるしい忙しさとなった。

すぐにアメリカ出張の準備をする者、外務省での会見に向かう者、首相官邸に向かう者、国際情勢識者インタビューに向かう者、騒然とした日が続いた。死者行方不明者の数が日に日に更新され、日本人の安否、犯人の目的などなどわからないことが多く、世界中の人々がニュースに関心を持った。

それから約一か月、アフガニスタンのタリバン政権が同時多発テロ事件の首謀者ウサマ・ビン・ラーディン容疑者並びにテロ組織アルカイーダをかくまっているとしてアメリカ軍をはじめ(とする)多国籍軍によるアフガニスタン侵攻が始まった。

この事件は入社間もない私に、報道に携わる者としての自覚を持たせる大きなきっかけとなった。

10月7日、多国籍軍のアフガニスタン空爆が始まった。この日以降、先輩たちは続々とアフガニスタンを目指し、隣国パキスタンやタジキスタン、ウズベキスタンなど聞いたこともないような国々へ飛び立った。開戦直後はなかなかアフガニスタンには入国ができず、JNNの前線基地はパキスタンの首都イスラマバードにあるマリオットホテルの一室に置かれた。

パキスタン出張クルーは一ヶ月程で交代だった。私のパスポートは、会社に預けていたが、もちろん私のような新人が簡単に海外出張に行けるはずはないと考えていた。

しかし、チャンスはやってきた。戦争が長引くにつれアメリカ出張、パキスタン出張と数クルーが交代し、デスクの人繰りが苦しくなってきた。私の僻地好きでどこへでも行く気満々な気持ちが買われたのだろうか、11月12日からのパキスタンへの長期出張をデスクから言い渡された。

パキスタンはアフガニスタンの隣国であり、それまでの取材は多国籍軍やタリバン広報官の会見、パキスタン国内の状況に関する企画取材などがメインであり、決して危険な場所ではないだろうというデスクの判断もあったのだと思う。

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11月13日、多国籍軍がアフガニスタン首都カブールを制圧したとの情報が流れた。

これがパキスタンに到着してから聞いた最初の情報だった。パキスタンでの仕事はトライバルエリアと呼ばれる部族支配地域におけるアフガニスタンとの 国境地帯のプレスツアー、ビン・ラーデンが潜んでいるとされていたトラボラでの取材、「報道特集」、「News23」の企画取材などであったが、これらは 先輩たちが担当していた。新人だった私の主な仕事は一ヶ月間マリオットホテルの前線本部に詰め、多国籍軍による連日の記者会見、地元テレビの収録、伝送用 に取材テープの粗編集、たまに外に出て情報提供者のインタビュー、反アメリカのデモなどの取材、はたまた食料の買い出しであった。予想以上に淡々としたホ テル内のルーティンワークが中心であった。

パキスタン滞在が一ヶ月近く経ちそろそろ交代の時期が近付いてきたそんな最中、急に状況が変わった。東京から来るはずの別クルーが担当予定だった News23年末特番取材を「パキスタンの前線本部のニュースクルーでお願いします」と本社から依頼が来たのである。帰国が延長され、雑務から離れ、刺激的なホテルの外に出たかった私にとってはこの企画は大きな喜びであった。

そして、アフガニスタンでの年末特番取材が決まった。12月19日、News23企画班としてゲストの作家H氏、ディレクター、カメラマンとともに慌ただしく空席待ちであった国連機に飛び乗り、数時間後にはアフガニスタンの首都カブールのバグラム空軍基地に降りたった。

多国籍軍が制圧してから一ヶ月、街に戦闘はなく表面上は平穏な空気が流れ、戦争が終わるかもという微かな希望が市民に芽生え始めた時期であった。

バザールと呼ばれる市場では生活必需品が売買され、タリバン政権下で禁止されていた音楽も流れていた。同じく禁止されていたテレビや手作りの衛星アンテナなども久しぶりに売られ、必死で生きようとする人々の活動が始まっていた。

しかし、一歩道をはずれればいたるところが地雷原。立ち寄ったレストランの中央の席には北部同盟の兵士が、無造作にRPG-7対戦車ロケットランチャーやAK-47カラシニコフと呼ばれる突撃銃を積み上げた横で佇んでいた。

カブールをはじめ、郊外の小さな町々は1979年ソ連のアフガニスタン侵攻当時から続く内戦で荒廃、疲弊していた。長く続いた内戦時から戦闘行為は 男たちの出稼ぎの場にもなっていた。兄弟でも出稼ぎに行くタイミングがほんの少しずれると兄はタリバン兵、弟は北部同盟にといった感じである。

取材中、多国籍軍の誤爆に巻き込まれた後遺症で目の焦点が合わないほど精神に異常をきたした幼い少女も取材した。もともとはタリバン軍の基地であったと言うグランドゼロのような大きな穴も目にした。そこは北部同盟軍の戦車師団の基地となっていた。

死と隣り合わせというそんな状況下でも人々は食べ、泣き、笑い、日々を生きている。新しい命の芽生えに感謝をし、明日に希望をつなげようと必死に生きている。取材を通し、私が生活している東京の現実と目の前にある現実の違いをまざまざと見せつけられた。あれから12年、アフガニスタンでは未だに自爆 テロが続き、多くの一般市民が巻き込まれている。

 

日本にいてはあまり気にもしない遠い国の話、いや日本国内のことでさえ少し時間が経てば自分の生活に影響がないからと忘れてしまう、『そんな日本の人々に少しでも何かを伝えることができれば』と願い、2001年のクリスマスはカブールからNews23年末特番、【アフガン報告】中継をしたこ とは忘れられない。

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それ以来、僻地好きが功を奏しているのか、北朝鮮、ケニア、スーダン、アルゼンチン、ペルー、ボリビアを取材した。国内では、新潟中越地震、新潟中越沖地震、岩手・宮城内陸地震、東日本大震災も経験した。

どんな時でも初心に戻り、『そんな日本の人々に少しでも何かを伝えることができれば』と必死に願いながら・・・。